自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

「反転授業」について考える

 「反転授業」というのがちょっとしたブームになっている(たとえばこの記事)。大雑把にいうと、授業の前に予習をさせ、授業中は予習してきた内容について、講義ではなく様々な演習や実習をする指導法だ。講義をビデオに撮り、ネットで閲覧できるようにして予習させる方法がよく使われるらしい。
 講義よりも演習や実習を優先させ、そのために予習を促進する工夫をするというのは実は新しいアイディアではない。むしろ、インストラクショナルデザインの考え方からすれば常識的な考え方であり、こういう取り組みが広まることはいいことだと思う。
 一方向的な講義というのは学び手から学習内容に関する行動を引き出さない。引き出せたとしても(例:教師が発問するなど)、強化もできないか(タイミングの問題や学び手の正誤反応がわからないことや、学び手にあわせて正答率を高めるプロンプトをだせないことなど)、貧弱になりがちだ。
 話を聞いて何かを学ぶための下位行動レパートリー(重要な点だけノートをとる、考えながらノートをとる、アイディアをメモする、文字だけではなくも文字情報間の関係性を図で描くなど)の取得程度には個人差が大きい。ちょっと注意がそれて大切なことを聞き逃しても、たいていはそのままになってしまう。
 集団講義形式というのは、言ってみれば8インチフロッピーディスクのような古代テクノロジーであり、黒板と共にそろそろなくなってもいい方法だと私は思う。
 だからといって、ネットでビデオというのもずいぶん安直だとも思う。わかりやすい教科書とその授業で対象とする範囲指定、学ぶべき点(学習目標)の明示さえすればいいわけで、何もビデオである必要はない。一般的に、話し言葉で伝えられる量は、書き言葉で伝えられる量よりも少ないし、教科書であればわからないところは何回も繰り返し読み返せるし、それでもわからない場合には資料を補足することも容易である。予習を自習させる限り、できるだけ学び手がとりうる行動の選択肢を広げておいた方がいい。ビデオという時間軸が固定され、提示速度も一定のメディアは、学び手にとってとりうる行動の選択肢が狭い(講義と違うのは巻き戻しができるということだけである)。
 また、むしろ重要なのは、予習行動を確実に自発させるための条件である。反転授業の先駆者であるアーロン・サムズ氏は、上記の記事によれば、予習してこなかった学生には授業中に教室でビデオを見させるそうだ。でも、それではそもそも演習や実習を重視するという話と矛盾してしまう(ただし、サムズ氏によればそうこうしているうちに学生は予習してくるようになるそうだ)。
 自分の場合、予習に課した学習目標について授業開始時に小テストをしたり(小テストの成績は授業の成績にカウントされる)、webクイズを予習にしたり(履歴が残るのでそれを成績にカウントする)など、色々な工夫をしてきたが、受講生の80%くらいはそれで予習をしてくる(ただし、この数値は授業や年度によって±10%くらいで変動する)。
 いずれにしてもビデオをネットで閲覧可能にするだけでは不十分だし、逆にビデオを使わなくても予習は促進できるということである。
 上記の記事では「まず、オンライン学習コンテンツにアクセスするためのデバイスとインターネットアクセスをすべての学習者に確保する必要がある」「(日本では家庭でインターネットを使用した学習環境が未整備で)特に初等中等教育においては大きな課題になるだろう」というコメントが引用されているが、これは本質を見誤ったコメントである。せっかくブームになっているなら、そこ(ネットやビデオ)に注目して、もっと重要な点を見逃してはいけない。
 重要なのは、集団講義形式が捨て去るべき古代テクノロジーであり、教え手が学び手に直接関われる授業では、学び手が学ぶべき行動を引き出し、強化することに時間を割くべきであり、そのための予習行動を促進する様々な工夫を学び手は授業環境にあわせてしていくということなのだから。
 どんなに効果的な教授法も、普及の過程で本質を見誤ると、玉石混淆となり、結局は衰退していく。プログラム学習しかり、ケラー先生のPSIしかりである。
 「反転授業」がそういう顛末を辿らないことを願う。
Keller, F. S. (1968). 'Good-bye, teacher . . .'. Journal of Applied Behavior Analysis, 1(1), 79-89. doi:10.1901/jaba.1968.1-79