自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

人はなぜ確率の理解が苦手なのだろうか?

行動経済学では人が確率をいかに誤って認識してしまうかを様々な課題から示している。モンティ・ホール・ジレンマというのもその一つで、次のような課題だ。

テレビのゲームショーを想像して欲しい。あなたの前には3つの箱が置かれている。そのうち一つだけに賞品(ダイヤモンドの指輪)が入っていて、残りの2つはハズレで空っぽである。

どの箱が正解か知っている司会者は、あなたに一つの箱を選ばせた後で、こう言う。

「わかりました。その箱をお選びですね。では、あなたが選ばなかった2つの箱のうち、片方だけを開けてみましょう」

司会者が開けた箱は空である。司会者は続ける。

「さぁ、ここであなたにもう一度選択のチャンスを差し上げます。そのまま先ほど選んだ箱を選んでもいいですし、こちらのまだ開いていない箱の方を選んでもいいですよ。どちらにしますか?」

あなたならどちらを選ぶだろうか?

大半の人は、どちらの箱も当たりの確率は1/3で同じだからそのまま選択を変えないと回答するという。私も最初そう考えた。でも、これは不正解。

正解は選択肢を変える。そうすると指輪があたる確率が2/3になるのだ!

間違えてしまった人もご心配なく。有名な数学博士でさえ同じ過ちをおかすらしいから。

人はなぜ確率の理解が苦手なのだろうか?

この問題に限らないが、行動経済学で取り扱われる課題の難しさは「確率」の「数学」的な側面ではなく、「国語」的な側面にあるのではないかと私は考える。

どういうことかと言うと、難しいのは計算の部分ではなく、状況の理解ではないかということだ。

モンティ・ホール・ジレンマのよくある解説はこのようなもの。

あなたが最初に選んだ箱があたりである確率は1/3。選ばなかった箱のどちらかがあたる確率は2/3である(1/3 + 1/3 = 2/3)。ところが司会者がそのうち一つは空であったと示してくれているので、残されたもう一つの箱に指輪が入っている確率は2/3になる。

正直な話。私はこのような解説を読んだ後もピンとこなかったし、3つの箱のどこに当たりが入っているかすべての組み合わせを書き出した表を見せられても納得しなかった。

なので、逆に、こういう問題なら理解できるという設定を作ってみた。

テレビのゲームショーを想像して欲しい。あなたの前には3つのコップが置かれていて、どれにもコーラのような黒い液体が入っている。そのうち一つだけに賞品(ダイヤモンドの指輪)が入っているが、どれに入っているのかは見えない。

どのコップが正解か知っている司会者は、あなたに一つのコップを選ばせた後で、こう言う。

「わかりました。そのコップをお選びですね。では、あなたが選ばなかった2つのコップの中身をとりあえず一度、こちらのボールに移しましょう。そして、ボールからコップ一杯分のコーラをこのコップに戻します。さぁ、このコップには....あれれ...指輪は入っていませんでした。」

司会者はそう言いながら、ボールから移したコップの中身をざるにあけたが、そこには何も残らなかった。司会者は続ける。

「さぁ、ここであなたにもう一度選択のチャンスを差し上げます。そのまま先ほど選んだコップを選んでもいいですし、こちらの、残りの一杯ぶんのコーラが残ったボールを選んでもいいですよ。どちらにしますか?」

あなたならどちらを選ぶだろうか?

このように聞かれれば、ほとんどの人が選択肢を変えてボールを選ぶのではないだろうか? 少なくともそういう行動をとる人は増えるに違いない。変更を選択しなかった人には、2つのコップをボールに移した時点で、既に選択済みのコップとボールを選択させるステップ(この時点ではほぼ間違いなくボールを選ぶはず)を入れてみたらいいだろう。(あまりにあたりまえそうなのでやってみる気が起りませんが、興味があれば誰か実験して下さい。)

箱問題なら不正解なのに、このコップ問題なら正解できたとしたら、それはどうしでだろう? 確率の理解が難しいからだろうか? たぶんそうではないだろう。

箱問題とコップ問題の設定の違いは、最初に選ばなかった2つの選択肢の合併と分割が含まれているかどうかだ。コップ問題にはそれが明文化されているが、箱問題にはされていない。明文化されていない、司会者が1/3ずつの確率であたっている2つの箱から1つをより分けて取り出しているということ、が読み取れるかどうかが正解への鍵になっている。

「数学」ではなく「国語」の問題なのではないだろうか?というのはこういう意味である。

ところで、コップ問題で司会者がすくってざるにあけるコーラの量を変えたらどうなるだろうか? コップに半分しかあけない場合と、コップ1杯半あける場合とで、選択肢を変更する人の割合は変わってくるだろうか?

もちろん、「数学」上はどちらも2/3だから選択肢変更行動に影響するはずはないのだが、私はおそらく影響があるのではないかと思う。それは、コップに半分しかあけなければ「まだかなり残っている」、コップ1杯半あけてしまえば「ほとんど残っていない」というような刺激性制御が影響するのではないかと思うからだ。

行動経済学でいう「ヒューリスティック」という概念は、行動分析学的に言えば随伴性形成行動(contingency-shaped behavior)と共通点がある。モンティ・ホール・ジレンマ課題を直感的に正解するのが難しいのは、課題の設定が私たちの日常生活にはほとんどみあたらないからであるとも考えられる。

逆に、日常生活によく見られる課題設定ではモンティ・ホール・ジレンマ課題における正答と拮抗する行動が強化されているとも言える。上のような状況なら、たとえば、整理されずに箱に投げ込まれたままの写真の山から目的の一枚を探すときに、「まだかなり残っている」状況では探す行動が強化され(見つかる)、「ほとんど残っていない」状況では強化されにくいという自然の強化随伴性の違いにより、「まだかなり残っている」刺激の方が「その中にありそうだ」と判断する行動を引き出しやすくしている。オリジナルのモンティ・ホール・ジレンマ課題でも、たとえば、「サイコロをふって特定の数字がでるのはいつも同じで1/6」とか「コインを投げて裏が3回続けてでても、その次に裏がでるのは1/2」とか、確率は一定で変わらないことをタクトする行動が随伴性形成されていて、同様の出題をされるとこのような言語行動が出現しやすくなっていると思われる。そしてこの言語行動はモンティ・ホール・ジレンマ課題にとっては妨害的な行動になりかねない。

他にも、ゲーム場面で司会者や出題者がもう一度質問を繰り返したときは“ひっかけ”であって、それに従ってまんまと引っかけられたというような経験があれば、「選択肢を変えますか?」という司会者の問いは、それに従う行動が弱化される弁別刺激として回避行動を誘発するだろうし、「最初に決めたことをここで変えて外れたら後悔するだろう」といったタクトが確立操作として、最初の選択肢を選ぶことの強化価を増大させるかもしれない。

このような複雑な課題に直面したときの人の行動はかく複雑で、決して「確率」あるいは確率の理解のみによって影響を受けるものではないのである。