自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

『The Bell Curve』と大学教育と成績評価

Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life (A Free Press Paperbacks Book) Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life (A Free Press Paperbacks Book)
Richard J. Herrnstein Charles Murray

Free Press  1996-01-10
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 米国では心理学の本としてかつてないほど話題になった『The Bell Curve』。パンドラの箱を開けるような内容のため批判や非難が殺到し、結局は誤解や無理解に埋没してしまった感がある。
 日本ではまったくと言っていいほど取り上げられなかったようだが、気になって買ってはあった(行動分析学では大御所であるHerrnstein先生がどうしてこのような本を書かれたのかということにも興味があったし)。でも、872ページもある分厚い本で装丁も聖書みたいで、読もうという気持ちにまったくならず、手つかずのまま研究室の本棚に埋もれていた。
 3.11の地震で本棚から大量の本が落下したときにその存在を思い出し、そして教授会で成績の付け方が議論になったことで(ナント絶対評価ではなく相対評価に逆戻りするようなハナシ)、あらためて読んでみた。
 とは言っても、こんな本をすべて読むにはとてつもない時間がかかりそうなので、著者が薦めるように、まずは各章の概要だけ、およそ30頁ぶんくらいを読んでみた。
 その内容はTwitterでつぶやいた(部分的に訳したり、メモしたり)ものを、下記のページにまとめてみたので、興味のある人はどうぞ(推敲もしていないので誤訳や誤字脱字満載のところはかんべん)。英語が読める人は、Wikipediaにこの本の内容とその後の批判・非難・支持など、議論の推移についてもよくまとまっているので参照するとよい(記事)。
 「知能」に関する心理学の専門家からの見解は、この本が世間を大きく騒がせたためにAPA(アメリカ心理学会)が特別委員会を設置してまとめ、公開している("Intelligence: Knowns and Unknowns"←現在APAのサイトからはダウンロードできないようだが、タイトルでググればどこかからPDFをダウンロードできます)。APAの見解はおおよそこの本の内容を支持している。ただし、白人と黒人のIQの差が「人種」によるものなのかどうかはわからない(証拠は少ない)としている。
 自分の興味は「知能」(この本では「認知的能力」としている)のうち、遺伝的に決定される因子が、どれほど学習や学業、仕事上のパフォーマンスに影響するのか、もしくはそのように考えられているかということだった。なぜなら、成績を相対評価すべきと考えている人たちは(そのように意識的に考えているのかどうかは別として)、どのように教えても、どのくらい学ぶかは、結局、学び手が元々持っている能力(「知能」や、もしかしたら「動機づけ」も含めて)によるのだと信じているのではないかと疑われるからだ。
 確かに、もし学業上の成績や仕事上のパフォーマンスが100%、認知的能力によって決まるのであれば、認知的能力が標準分布する限り(ちなみに「Bell Curve」とは釣り鐘をかぶせたような標準分布の形のこと)、成績を相対的につけるのにも一理ある。ただし、その場合、成績とは自分(教師)がどれだけその授業で教えられたかではなく、単純に、学び手が授業とは無関係に持っている能力を測っているだけ、ということになる。
 この本では認知的能力のうちおよそ40-80%が遺伝的に決まっているとしているが、上記のAPAの見解ではIQと成績の間の相関は0.5くらい(IQで成績を説明できるのは25%)である。つまり、確かに、学び手が元々もっている能力は、教え手が教えようとすることをどのくらい学ぶか(学べるか)に影響するが、それがすべてではないということになる。教え手が工夫することで、学びを増やす余地は十分にあることになる(よかった、よかった)。
 もちろん、大学教育に対する批判としてよくあるものに、学生が到底理解できないような難しい内容を、学生のことはおかまいなしで教えている(教えられていないのだが、それは学生のせい)ということもある。持って生まれた(あるいは大学に入学するまでに学習した)認知的能力に個人差があるのはあたりまえのことで、逆に、そのことに見て見ぬ振りをしたり、みな同じはずだと無謀な思い込みをせずに、そうした個人差を考慮した授業づくりや指導の方法を考えて行くべきなのだ。
 そうしたもろもろの工夫の結果、成績がどのように分布するかは、分布がそうあるべきというより、事実としてそうなったと捉えるべきであって、それを無理矢理、大学の方針として、相対評価で成績をつけてしまうことには大反対なのであった。
 ちなみに、今年度前期の「行動分析学」の授業ではほぼ毎回webテストを実施している。これまでの10回ぶん(満点94点)の成績分布は下のようになる。この授業ではプロジェクトを重視しているので、成績に占める割合はプロジェクトのレポートが40%、webテストと授業内課題があわせて60%で、テストが全体に占める割合は30%前後。でも、全部あわせてもだいたい成績の分布はこのようになる。授業を1-2回受けてみて(どれだけテストや課題が多いかわかって)受講しなくなる人たちがまずいて、残った人たちから脱落する人たちが若干いて、あとは教えようとしていることをしっかり学ぶ人たちと、80%くらい学ぶ人たちに分かれる。最後の2グループの差はおそらく動機づけ(授業の内容にどれだけ興味があるか、あるいは部活など他の活動に時間をとられているか)の違いではないかと踏んでいる。
 絶対評価をすると、しっかり学んだ人たちはAもしくはA+、そこそこ学んだ人たちはAもしくはBということになるのだが、相対評価にして決められた割合で成績を振り分けることになると、場合によってはそのようなことが難しくなる(幸い、自分の授業の多くは初期のドロップアウトが多いためみためはそうならないが)。
 要するに、どのような内容をどのように教えていて、どのように評価しているのかを明確に説明する、そのことで説明責任を果たす。それが大事だと考える。

 

Webtestscores

Twitterでつぶやいたぶんは「続き」に

p. 22. 『Bell Curve』本書で前提とする6つの事実(すでに研究され尽くされていて、専門家の間で見解の相違はほとんどないが、一般には知られていないか、誤解されていること)

1.認知的能力(本書では「知能」ではなく「認知的能力」としている)には一つの代表的な特性が存在し(いわゆる一般的知能g)、個人差がある。
2.標準化された学力テストや適性検査は多かれ少なかれこの一般的知能を測定していることになるが、最も正確に測定するように作られているのが知能検査である。
3.知能検査の得点は、我々が日常的に「知的である」とか「賢い」と表現する特性のことを表していると考えて間違いはない。
4.知能検査の得点は、完全にとは言えないが、同一個人の一生ではほぼ不変である。
5.知能検査は、適切に実施されれば、社会的、経済的、文化的、民族的な偏向はほぼなくすことができる。
6.認知的能力はかなりの部分が遺伝的に決まっている。それはおよそ40-80%の間である。

p.23. 『Bell Curve』これらの事実は研究からは明らかだがメディアを含め一般人の理解とは真逆であることも多いので受け入れがたいかもしれないが、本書では既知の事実として扱う。すでにたくさん書かれていることを繰り返し書くことはしない。

p. 25-27. これまでの社会では家系や血縁、既存の社会的地位が優勢だったため、知的能力による社会の層化は生じなかったが、近代化、民主化に伴い、知的能力の階層化が急速に進んでおり、21世紀はこれがさらに進むだろう。

p. 29 米国における知的能力の階層化はエリート大学が生まれ、大学が学生の知的能力によって順列化されることによって進んだ。

p. 51-52. 20世紀中盤までは職業とIQとはあまり関係がなかった(大企業のCEOは賢いからではなくは白人・男性で裕福な家庭に生まれ、家業を引き継ぐ人も多かったから)。それが20世紀の終わりになると、職業とIQとは密接な関係を持つようになった(データは米国のものなのだが日本ではどうなんだろう?)

ちなみに米国では企業での採用判断に知能テストを使うのは法律で禁じられていたはずだが、日本ではどうなんだろう。昨今、頻繁に使われているSPIなんかの得点は知能検査の得点とかなり高い相関を示すのではないかと思うのだが。

p. 63-64.  各種の適性検査が就業後のパフォーマンスに予測力を持つのは、それらの検査が特定の職業の適性を測定しているからではなく、何らかの形で一般的知能(スピアマンのg)を測定しているからである。

職業ごとの適性を測定しなくても、就業後にその職種に必要な知識や技能を学ぶことがいずれにしても必要であり、その学習の早さや深さに一般的知能が関連している、ということか。

p. 64. 高いIQを持つ人を雇う企業ほどそうでない企業に比べて業績が良くなる。そういう選抜をさせる社会の方がそうでない社会に比べて経済の効率性が高くなる。

p. 64. 米国では1971年から知能検査を人事選考に使うことを禁じている。この法律の施行によって損失された経済効果は1980年に関して130-800億ドルと推定する専門家もいる。

p. 64. 法律によって知能検査を選考に使えないようにすることはできるが、知能の重要性にはかわりがない。

p. 91.  IQの高低による収入格差は明白であり、この差は教育歴(学歴)によっては説明しきれない。

p. 91.  知能エリートは物理的にも隔離されていく:どこに住むか、どこで買物をするか、どこで遊び、祈るか、どこの学校に子どもをやるか、などなど。(確かに米国ではこの傾向が顕著だと思う。日本でもこういう傾向が進んでいるような気がする)

p. 91. 皮肉なことに、米国の平等主義や政策が、遺伝によって引き継がれた知能による社会の階層化を促進している。認知的能力は遺伝と環境の両方に影響を受けるが、平等に学習機会を提供する民主主義の政策が、環境の差を打ち消す傾向に働くからである。

p. 91. 現在アメリカ経済社会における成功と失敗はかつてないほど遺伝された知能によって決まるようになってきている(こういう書き方したら、そりゃ反感買うだろうね〜)。

p. 91-92. "assortative mating"(似た者同士がつきあったり結婚して子孫を残す傾向のこと)がIQによって起こるようになると(かつ、学歴や職業が似たものが結婚する傾向とも組み合わさって)、知能による階層化が加速する。

p. 117.  "一般的に"、高認知的能力は社会的に望ましい行動と関連し、低認知的能力は社会的に望ましくない行動と関連している。  "一般的に"というのは、"いつもそうだ"というわけではない。関連性の大きさはせいぜい20%、通常は5-10%ほど(全体のばらつきのうち認知的能力で説明できる割合)。

p. 117.  個人のIQからその人の将来は予測できない(これ重要)。しかし、集団となると差が明らかになる。この後の章では、集団としての傾向を予測する変数として知能がどれだけ社会的に重要な事象を説明できるか(社会経済的地位などの共変数の影響を排除した上で)を解説していく。

p. 127.  IQは社会経済的地位よりも貧困との関わりが強い。極端に言えば、裕福な家庭に生まれるよりも賢く生まれた方が、貧困にならない確率が高い。

p. 155-156. 失業もIQと強い関係にある。失業や無職の理由を身体障害としている人の中の低IQ者の割合も高い。(ここだけ読むと、就労中に事故などを起こして(あるいは、巻き込まれて)、仕事が続けられないほどの障害を受ける確率をIQが予測しているようにも読めるが、これは本文を読まないと判断できそうにない。知的障害者や重複障害者のデータは除外されているのだろうが、気になるところ。)

p. 167. 全体的な傾向として、IQが高いほど結婚する頻度が高い。離婚率は社会経済的地位や学歴と関連しているとされてきたが、社会的地位よりも認知的能力ほうが予測力が高い。

p. 167. IQが低いほど結婚せずに子どもをもうける確率が高くなる(「illegitimacy」は直訳すると「非嫡出子」になるが、入籍せずに子どもを持つカップルなどは除外したケースの数だと思うが、これは本文を読まないとわからん)。

p. 191. 生活保護を一時的に受ける女性については、低IQが、婚姻状態、貧困、年齢、社会経済的地位よりも大きなリスク要因になっている。
p191. IQ、社会経済的地位ともに平均以上の白人女性はまず生活保護を受け続けることにはならないが、そうした限られたサンプルにおいては、IQよりも社会経済的地位の方が予測力が高い。

p. 203. 母親の子育てもIQと関連している。白人の母親のデータからは、IQが低いほど子どもの出産時の体重が低いことが示されている。その他、家庭環境、子ども問題行動との関係も。

p. 235. 全体的に、犯罪者のIQは平均よりも低い(92)。社会経済的地位を統制しても変わらない。
p. 235. 不安定な家庭に育ち、親が犯罪者だったり、子どもの頃に犯罪につながりそうな傾向をみせていても、本人のIQが高いと犯罪者にはなりにくい。

p. 235. 白人男性の場合には、社会経済的地位よりもIQの方が犯罪を犯す確率の予測力が大きい。

p. 253. 自由主義社会の基盤となる市民の政治への興味や参加の程度とIQの関係を検討するためのデータは限られている。
p. 253. 賢い子どもほど政治についてよく学び、討論することは言えそうである。成人については社会的経済的地位が高いほど、政治に強い興味を示すことがわかる。貧富の差よりも学歴の方が説明力があり、これはもしかすると知能が学歴と関係しているせいかもしれない。

p. 269. 東アジア人(中国人や日本人)のIQの平均値は、居住地によらず、米国の白人より高い。差は数ポイントから10くらいまで。差は非言語的知能に。

p. 269.  アフリカ系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人のIQの平均値の差はおよそ一標準偏差ぶん。白人の平均的なIQを持つ人は黒人の84%よりも高いIQを持つことになり、黒人の平均的なIQを持つ人は白人の16%よりも高いIQを持つことになる。

p. 269. 社会経済的地位のどのレベルでもこの差は存在するが、SESが高い層の方が低い層よりも差がIQの差が大きい。知能テストが不当に偏っていることを示そうとした研究は数多いが、失敗に終わっている。

p. 269. 過去数十年間にわたって差が縮小している。これは極端に低いIQを示す黒人の数が減少していることが原因であると考えられる。

p. 317. 同等のIQを示すラテン系と白人はおおよそ同程度の社会的、経済的状況にある。

p. 317. IQを制御して比較すると(同程度のIQを示す層で比較すると)、学歴と就労状況に関しては、白人よりも黒人の方が高い値を示す(逆転する)。収入については、IQを制御しない場合に比べ、平均値の差が大幅に縮小する(数千ドルの差から数百ドルの差へ)。

p. 341. 米国全体でのIQ平均は下降傾向にある。経済の発展につれて出生率が低下する。出生率は特に高学歴の女性で低下する(高齢出産で少子化)。学歴と知的能力には高い相関があるので,知的能力が高い層の子どもが相対的に減少する。このような傾向が白人よりも黒人やラテン系アメリカ人で顕著であることを示すデータもある。

p. 341. 1980年代の移民の平均IQは95であったというデータもある。これが改善されることもあるが,かつてアメリカを目指した移民によくみられた特性(勇敢,勤勉,創造性,自主性が高い)に変化がみられるというデータもある。

p. 369. さまざまな社会的な問題を持つ人たちには知的能力の低い人が多い。知的能力の低さが社会的問題の原因になっているわけではない(因果関係の立証は困難である)。ただし,社会的問題を解消するための解決策を考案するときには,この点に配慮すべきである(知的能力が低い人を対象にしても成功するように)。

p. 389.  食糧状況(栄養をしっかり摂ること)が身長と体重を増加させることは事実で、認知的能力にも影響を与えることが示唆されているが、結論づけられるようなデータはなく、そのプロセスもわかっていない。

p. 389. 先進国のようにすでに12 年間近い初中等・高等教育が実施されている国では、既存の教育方法やプログラムが認知的能力に及ぼす効果は一時的もしくは限定的である。

p. 389. 就学前教育には可能性があるが、Head Start は認知的能力の向上を生んではいない。もっと強力な(それゆえお金のかかる)プログラムを導入すれば知能が向上する可能性もあるが、実現するかどうか、それだけの効果が生みだされるかどうかについては議論がある。

p. 389. 確実にIQの向上が期待できるのは、IQの低い家庭に生まれた子どもが出生時にIQの高い家庭に養子にでた場合である。IQが6ポイント近く向上するというデータがある。

p. 389. 総じると、知能を上げようとする試みは未だ成功しておらず、希望に満ちた主張が多い割に、結論は失望的である。

p. 417. アメリカの教育がひどいことになっていると嘆く人は多いが、実際には、平均的なIQを持つ子どもは、いまだかつてないほどよい教育を受けている。

p. 417. アメリカ教育の問題点は、認知的能力の高い子どもへの対応にある。高得点層のSATの得点は1960年代中盤に下落し、言語能力の得点はそれ以降回復していない。

p. 417. これは過去30年間にわたって、不利な(disadvantaged)子どもへの支援の方が「流行」となり、優れた(gifted)子どもたちへの支援は「廃れ」となってきたからとも考えられる。90年代、優れた子どもたち(初等・中等)への支援に向けられた国家予算は全体の0.1%である。

p. 417. アメリカの教育は知的に恵まれない子どもたちにあわせてレベルを落としてしまった。教科書は安易になり、宿題やテストや成績も甘くなった。こうした配慮は平均以下の子どもたちには有効だったかもしれないが、優れた子どもたちの能力は開花させにくくなった。

p. 417-418. 国は(アメリカは)教育バウチャーや免税などの仕組みを使って、保護者が自分の子どもたちを彼らに適した望ましい学校へ送れるようにする仕組みを整えるべきである。地域の公立学校間にも選択の機会を保障すべきである。

p. 417-418. 国の奨学金は学術的な成果に対して与えられるべきである。現在、不利な子どもたちに向けられている予算を優れた子どもたちに再配分すべきである。

p. 447. 現在、高等教育において実施されているaffirmative action(積極的な差別撤廃措置)は元々の目的とは異なる効果を示している可能性がある。

p. 447. 上位の大学において、黒人の新入生の平均値は白人の認知的能力の10-15パーセンタイルにある。アジア系の平均値は60パーセンタイル。(大学入試においてアジア人は"a conspicuously unprotected minority" とあるが、少々意味不明。アジア系ってAAの対象じゃなかったっけ?)

p. 447. AAの問題は、不利なマイノリティと有利な(裕福な?)マジョリティの間での配慮ではなく、有利なマイノリティが不利なマジョリティよりも優遇されがちであること。

p. 447. AAは黒人とラテン系アメリカ人の学生を大学にもっと入学させるという意味では成功したが、そのために他の問題も引き起こした。大学全体をみれば黒人とラテン系アメリカ人は少数派であるのに、成績に問題がある学生の中の割合は高い。退学率が高いのは、この差がもたらす心理的な影響なのかもしれない。

p. 448. 社会的にも、大学卒という学位が同じ意味を持たなくなってしまっている(ホントかよ?)。
AAはそもそもの目的であった、不利な状況におかれた優秀な子どもに、皮膚の色に関係なく、
適切な教育が受けられるように配慮するという方向に転換すべきである。

p. 479. 職場におけるAAは一定の成功を示したが、IQを考慮すると、60年代から以降、ホワイトカラーや専門職において、黒人労働者の割合が母比率よりも高くなっている。

p. 479. 採用や昇進に関する議会と連邦最高裁判所の裁定は次のことを前提としているが、すべて間違っている:一般的な知能を測定するテストの成績を使うのは妥当ではない、望ましいのはその仕事に特定のスキルを測定することである、テストには黒人や他のマイノリティに対するバイアスが含まれている、すべての人種は認知的能力について同じ分布を持つ。

p. 479. 逆説的になるが、真に公正で公平な手続きをとると、国の政策として回避しようとする人種間の差が明確になってしまうのである。