自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

大学のグローバル化を進めたいなら

 授業で英語の動画を教材に使って(コロンバンシュミレーションの解説動画、字幕なし)、学生に英語がどのくらい理解できたかを尋ねてみた(n = 67)。
 動画を見せる前に、動画にでてくる実験の話(ジャックとジルのコミュニケーション、マークテスト、台を動かして乗ってバナナをつつく“洞察”実験、実験の背景となる科学論)は日本語で講義をした上で。
 理解度百点満点の自己採点は二極化(二山分布)するかと予想していたのだが、思いっきり0-10にピークがある右下がりの度数分布だった(ぎょあ〜 授業時間を無駄遣いしたかも)。
 文科省グローバル化の名の下に大学で英語の授業を増やせだのなんだの言っているようだけれど、もう少し現実をみる必要があるなぁ。
 これからの社会人(企業人)に英語力がさらに必要というのはわかるし、大学が最後の砦だというのもわかるが、大学までにもう少しなんとかしておかないと、実際には難しい。
 基本的に読み書き計算のリテラシーは大学入学前までに基礎的なレパートリーを確立しておいてもらわないと。大学入学後にその訓練をするとなると(技術的にできないことではないにしろ)、本来大学で教えるべきことに割ける時間が圧倒的に減ってしまう。それは結局は社会人として必要な力量の低下につながってしまう。ちなみに大学では社会に出てから役に立つことが学べないという人は、もう一度大学に入学してみるといい。何十年前と今の大学では、学部や学科やゼミにもよるけど、やってることがまったく違うことが多いですよ。昔は確かに一理あった主張だけど、今はあまり説得力がないかも(注)。
 たとえば高校卒業までに、日本語の新聞記事を読んでから英語のニュースを聞いたら50%くらいは聞き取れて理解できるところあたりを目標にして、そこまでやってもらえれば、後は大学入学後に引き継げると思う。
注) 大学というところは、多様性が信条だから、それぞれ学部や学科、教員やゼミや授業によって、やってることはほんとに色々。だから、「大学というものは」という包括的“大学論”のほとんどは、その人の受けた大学教育や情報によってかなり偏向するものだという自覚がないと、ほんとよくわからん議論になります。