自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

考えてみました: 就活問題に対して大学ができることは授業料課金制度の変更じゃないだろうか。

まずはミスマッチ解消を?「問題なのは、就活の開始時期よりも、低迷する就職率の改善だ。大手企業に人気が集まり、中小企業に人が集まらないミスマッチの問題こそ解決すべきで、学生がもっと中小企業の求人に目を向けるよう、国が施策を講じるべきだ」 小島貴子准教授@立教大 (日本経済新聞 朝刊, 2011/01/13, p. 39)

 経団連による就活の新しい指針が提示された。会社説明会を大学3年の12月から開始するよう、現状から2ヶ月遅らせる内容だ。

 拘束力もないし、2ヶ月じゃほぼ変わらないのと同じ。あまりにも中途半端だけど、企業団体として現状できることはこのくらいだろう。

 最近よく指摘されているように、企業の採用は改善しつつある。総募集数は総新卒数を上回っているらしい。それが内定につながらないのは、小島先生も指摘している学生の「大企業」指向、そしてあまり指摘されていないが、地域による景気回復のばらつきや(たとえば地元で就職したい / Uターンしたいが採用数が少ない)や学生の進路の多様化と曖昧化(たとえば大学を卒業してから専門学校に入り直そうかと考えているうちに卒業しちゃったり)、企業からみても就職の準備ができていない学生もいること(そもそも就活してなかったり、就活しているけど、別に就職できなけりゃフリーターでもいいやと思っている学生など)など。

 とにかく原因は多元的で、いっぺんに全部解決できる方策はなさそうだ。

 「ミスマッチ」については(「ミスマッチ」という日本語は間違っている気がする、マッチし損ねているわけだから)、学部を卒業してから小さなソフトウエア会社に務め、そこで人生が変わるくらいの勉強をさせてもらった自分としては、中小企業の魅力を声を大きくして訴えたい。

 中小なら大企業だと何年も勤続しないとできないような仕事だって、すぐにやらせてもらえるかもしれない。就活をしている学生が「営業企画をやりたいです!」なんて大志を抱くのはよいことだが、大企業に就職したらそんなこといきなり若造にはやらせてもらえませんよ。

 中小ではまさに会社の成功が一人ひとりの力、そしてチームの力にかかってくる。昔よく言われたような“機械の歯車”みたいな無力感を味わうことも少ない。むしろ、自分が頑張れば会社が変わる、会社が変われば社会も変わるかもという意気込みで仕事ができる。なにしろ、我が国では、421万企業のうち中小が99.7%、従業員数でも7割を占めるのだから(中小企業白書)。

 大企業の「安定感」というのもそろそろ怪しい。花形JALだってリストラされる時代である。しかも会社が大きくなればなるほど、会社の経営に与える自分の貢献度は下がる。自分はこんなに頑張って成果もだしているのに会社自体はどん底で、いざリストラとなったら社内の人間関係を理由に退職勧告がやってくるなんてことだってある。

 まぁ、こんなこと言っても(書いても)、就活している学生さんに与えるインパクトは限りなくゼロに近いので、もう少し実効性のありそうな提言を最後に。

 小島先生は「国が施策を講じるべき」とおっしゃるが、国に何ができるというのだろう? もうそろそろ、こういう何でもかんでも国に頼るという発想はやめにしましょうよ。

 大学にできることで即効性がありそうなのは、授業料を年定額制から単位切売り制にすることじゃないだろうか。そして「学年」という概念をなくしてしまうこと。卒業の要件は「4年たったら」ではなく「学位(学士)を取得したら」にする。今でも学則上(法律上?)は後者になっているはずだが、運営上は限りなく前者に近いのだ。

 そもそも学問に対する興味や動機づけがばらばらで(←悪いことではない。「多様性」万歳である)、大学入学までに学んできたことにも大きな個人差があるのが現状で、しかも大学での勉学は高校までと違って、すべてがカリキュラムによって定義されるものではないのだから(←最近の文科省はこれをやろうとしている動きがあって、私は反対の立場)、学位取得までにかかる時間にばらつきがでないのはむしろ不自然である。

 前期・後期の最後(クォーター制なら年4回)に学位申請と認定の機会を設ければ、毎年3月に一斉に卒業生がでることが(しばらく時間がかかるだろうが)なくなっていく。学位取得までにかかる年月もばらつく。つまり「新卒」という概念を形骸化するのが目的。

 学生によっては在学しながら1年間海外で留学(遊学)し、5年かけて卒業したり、1学期に2-3コマだけ受講しながら長期インターンシップを重ね、学生・採用側共にマッチを認めた段階で卒業していくとか、あるいは逆に就職したけど、もう一度大学で勉強したい人が週1日だけ「学生」になるなど、いわば大学という学びの場・機会をもっと多様に柔軟に社会に開放することができる。

 これは副作用だけど、教員によっては学生の受講態度の改善が期待できる。単位を落とす=その受講料が無駄になる、という随伴性が導入されるわけだから。皆、必死になる(はず)。ちなみに、日本の大学生が勉強しない(ように見える)、あるいは米国の大学生が相対的によく勉強する(ように見える)のは、この随伴性が大きいのではないかと思いますよ。

 大学にとってのデメリットは経営上のリスクだろう。現在は入学した後はほとんどの学生が卒業するまで毎年きちんと固定した授業料を支払ってくれるわけで、収支計画が(他の業種に比べて)うそのように立てやすいわけだが、それが揺らぐリスクが生じる。

 でも不可能ではない。だって米国の大学なんかは、こういう形態で運営しているわけだから。そして米国には「新卒一斉採用」なっていう概念はない(他の国はどうなんだろね?)。

 学生の学ぶ機会が損失し、日本の将来にとって大問題であると、いくら大学が声を大にして訴えても、企業には企業の都合があるのだから、おそらくこの問題は解決しない。

 結論:大学にできること(の一つ)は、授業料課金制度の変更である。

 以上。