文化庁の「国語に関する世論調査」が今年も発表され、新聞各紙が取り上げた。
中でも興味深いのは「ご苦労さま」と「お疲れさま」。
どちらも、ほんとうは目上から目下へのねぎらいの言葉なんだそうだ(知らなかった)。
でも、「目上/目下」というのは歴年齢のことなんだろうか? 職場での役職のことなんだろうか? まさかお家柄とかじゃないよな、とさっそく疑問だらけになる。
日経新聞のコラム『春秋』には
「ご苦労さま」にも感謝の意味があると唱える専門家もいるからややこしい(2006.7.28)。
とあったが、そんな専門家がいるなんてこと自体もややこしい。
挨拶などの慣用語というものは、特定の社会や場面で使われる慣習的な言葉である。つまり、ローカルな言語共同体で自発され強化される言語行動レパートリーだ。
たとえば、うちの心理学科の学生は、昼に会っても「おはようございます」と挨拶する。まるで芸能界のようだ。最初は面食らったが、慣れてしまえばなんてことはない(目くじらをたてるようなことではない)。
慣用語というものは、ローカルな言語共同体の随伴性が変わればそれによっていくらでも変わっていくコトバなんだろうから(というか、そういうコトバを「慣用語」と呼ぶわけだから)。
「ご苦労さま」と「お疲れさま」に関して言えば、たとえばテニスのレッスンを受けていて、自分よりもはるかに年下のコーチに「お疲れさまでした」と言われるのは、ごくごく自然である。
教員研修や企業研修をやっているとき、自分より目上で社会的地位も高い人たちから課題を提出していただいたときには「ご苦労様でした」とメールを送る。これもごく普通に感じられている(と思う)。
こうした言葉の使い分けが慣用的に使われていたのは、言語共同体が“目上/目下”という単純構造で形成され、常に目上が目下に教え、常に目下が目上に感謝する相互作用があたりまえだったときではないだろうか?
「年齢」という変数がそういう意味ではあまり機能していない言語共同体では、年齢を弁別刺激にした行動も減ってきて当然である。
『春秋』にも取り上げられていたように、学校の教員が自分たちのことを対外的にも(たとえば保護者にも)「○○先生」と呼ぶ慣習の不自然さは前から感じていたが、これとて、要は、学校の教員がいかに外部の社会と接点がないかということの表れでしかない。
学校が開かれた組織になり、保護者や地域の人や専門家とやりとりをしながら教育を進めるようになっていけば、随伴性も変わって行動も変わるだろう。
コトバは社会を写すカメラのようなものであるのだから(←こんなこと誰か言ってなかったっけ?)。