自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

なぜ電車で化粧をするのか?

10年ぶりに東京へ戻って驚かされたことの一つが電車で化粧する女性たちだ。マスコミ報道で存在は知っていたけど、読むと聞くとでは大違い。目の前で繰り広げられる彼女たちのふるまいに、戸惑い、恥ずかしさ、そして大きな興味を抱いた。

じろじろ見ては失礼だと思いながらも、その器用さと手際の良さに感動してしまい、ついつい観察してしまう。けっこう揺れているのに眉とかしっかり描いてるし、電車の中で化粧しやすいようにバッグから容器まで装備もいろいろ工夫していそうである。そうやって観察してよくわかった。あの人たちはコンパクトを見るのに忙しから、回りからじろじろ見られても気がつかないか、気にしていないのだ。

週刊誌の記事などからは女子コーセーなど若年層が多いという印象を受けていたが、三十代・四十代の女性もいらっしゃる。必ずしも単純に「世代」による現象とは言えないようだ。

彼女たちはなぜ電車で化粧をするのだろうか?

車中で直撃インタビューする勇気もないので、とりあえず回りの女性から意見を聞いてみた。「家でゆっくり化粧する時間がなくて」とか「通勤・通学の時間がもったいなくて」などの理由が肯定派から聞かれる。面白いことに「あんなこと恥ずかしくて私にはできない」というオジサン的・正統的・伝統的な価値観を持っている女性もたくさんいた。

彼女たちには恥の意識や規範がないとか、自分たちの世界だけに生きているとか(われわれオジサンは視界にさえ入らないとか)、批判的・攻撃的・自虐的な意見を言う人もいる。こうした批判はウォークマンや携帯電話が世に出たときにも聞えてきた批判である。新しい行動は、これまではやられていなかったという新奇性だけで批判されることがある。

現に彼女たちに不用意に注意すれば「どうしてだめなんですか? 誰にも迷惑かけてないし」とか、「混んでるときに新聞広げて読んだり、酔っぱらってお酒の匂いぷんぷんさせたり、体臭のケアもしない方がよっぽど迷惑じゃないですか?」なんて逆襲されかねない。いや、たぶんされる。そうなったら『国家の品格』の藤原正彦氏のように「いけないからいけないんだ!」と開き直るしかない(でも彼女らも開き直るだろうかららちはあかないけど)。

行動を良い悪いだけで判断しようとするとこんな押し問答になる。

電車の中で化粧をする理由は、あたりまえのようだが、キレイ(あるいはカワイク)になりたいからである。なぜ家でやってこないかというと、これは順番が逆になると思うのだけれど、電車でもできることがわかっちゃったからである。芋を洗う習慣がなかったサル達に、たまたま一匹のサルが新しい行動を発見をしたのが一斉に拡がったのに似ているかもしれない。

人前で化粧するのは恥ずかしいはず。だからこれまで誰も電車の中で化粧していなかったのは、そんなこと恥ずかしくてできなかったからだ。つまり「恥ずかしい」という」価値観が揺らいでいるのだという仮説も妥当なものだ。でも「すべての女性にとって恥ずかしいはず」という仮説にはかなり無理がある。なにがどんな状況で「恥ずかしい」という感覚を生じさせるかには大きな個人差があるから。Tシャツをジーンズの中に入れたり、長いソックスをめいっぱい引き上げてはいたりするのは私には恥ずかしくてできないが、それがフツーのオジサンは世に山のようにいる。

現在でも、半分以上の女性にとっては、おそらく車内の化粧は恥ずかしく感じるのではないだろうか。問題は10年・20年前にこの比率がもっと高かったどうか。とても興味のあることだか、なかなかいいデータが見つからない。私はへそ曲がりで、世の中やマスコミが価値観の崩壊をマイナスのイメージで報じれば報じるほど、反対票を投じたくなる。だから、10年・20年前でも、たとえば数人の女性をサクラとして山手線に放ち、化粧をさせれば、かなりの数の模倣者が現れたのではないかと想像してしまう。

価値観の変容に関してむしろ興味深いのは、女性が(そして最近では男性も)見かけのキレイさやカワイさをとても重要視することになったということである。これは化粧品やサプリメントの消費が年々増え続けていることからもわかる。これには2つの背景があると思う。

一つはキレイさやカワイさの次元が多様化したこと。昔は見かけ上の「美」は持って生まれたものだった。吉永小百合夏目雅子に生まれたならともかく、そうでなければ、ある意味「美」は羨むものでしかなかったのだ。ところが、最近はおそらくは化粧やファッション業界の意図だと思うけど、いろいろなキレイさがアリになってしまった。とくに「カワイイ」という価値が創出されたことが大きい。夏目雅子の「美」はほとんどの女性にとっての手の届く範疇にはないが、久本雅美山田花子の「カワイさ」なら充分手に入る。なにしろ「キモカワイイ」さえokの時代だ。

つまり、昔ならキレイになろうとする行動はなかなか強化されるものではなかったのだが、今や価値の多様化によって、吉永小百合夏目雅子じゃなくても、少し頑張れば「カワイイ」を強化されるのだ。それなら頑張らない方がおかしい。

さらに、この「カワイさ」の価値は、子どもの発達段階のかなり初期から成人するまで、継続して一貫して提示されるものとなってしまった。公園などで家族づれを観察していると「○○ちゃん、かわいい」「なにそれ、かわいいねぇ」とカワイさ連発である(特にご近所の家族同士が出くわすと、お互い相手の子どもを誉めると自分の子どもも誉めてもらえるいう相互作用によってこのオンパレードになる)。

これも10年・20年前のデータがぜひ欲しいところだが(残念ながら見つからない。ご存知の方はぜひ紹介して下さい)、同じような公園場面を観察したら、子どもへの誉め言葉は、今ほど「カワイい」のモノトーンではなかったはずだ。

電車へ戻ろう。

通勤時間の20分間。化粧以外にもできることはたくさんある。iPodで音楽を聴いてもいい、携帯でメールやゲームをしてもいい、新聞や新書を読んでもいい、訝しがられることを覚悟で、私のように他の乗客をじろじろ観察してもいい。その中で化粧をする行動を選択するということは、それらのいろいろな選択肢の中で「キレイに」「カワイく」なることがその時点でもっとも強化的だからだ。つまり、車内で化粧をしている女性にとっては、たとえば新書を読んで得られる情報とか、知的好奇心を充足することの価値が相対的に低いということだ。

「カワイい、かわいい」と育てられてきて、今でもそのように社会的に強化されている彼女たちにとってはごくごくフツーのことなのだ。彼女らの“奇行”を嘆いているのが、彼女らを「カワイい、かわいい」と育ててきたお父さんたちの世代であることは悲劇的だが、救いはある。

これからのお父さんへ。ぜひ娘さんを「かしこい、かしこい」と育てて下さい。せめて「カワイい」の半分でいいから。そうすれば10年・20年後には、電車で新書を読むキレイでカワイい女性が倍増すると思うから。