自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

日本心理学会第77回大会チュートリアルワークショップのフォローアップ(その1)「自主性」をどのように解釈するか

 日心のチュートリアルワークショップ『日常生活に活かす応用行動分析学』では、応用行動分析学の考え方を日常の仕事や生活における行動変容に援用していくときの注意点やコツなどについてお話しました。
 90分の持ち時間のうち、私の話と参加者との質疑応答の割合を6:4くらいにするつもりで準備していましたが、いざ始まるとやはり時間的余裕がなく、9:1くらいになってしまいました。結果的に、定員数を絞った意味がなくなってしまいました。この点は、参加者の皆さまにも、当日、参加しようとして断られてしまった方々にもお詫びをしないといけません。すみませんでした。

 さて、ワークショップそのものは「教科書にはあまり書いていないこと」に内容を限定することで、それなりに面白かったのではないかと思います。後日、何人かの参加者の方々から、肯定的な感想をメールでいただきました。
 行動分析学会の会員ではないし、行動分析学を系統的に学んだというわけでもないが、行動分析学には興味があるし、仕事に役立てればいいなと考えておられる関連領域の専門家の人たちのニーズを探ることが、このお仕事をお引き受けした理由の一つでした。参加者の皆さま方のご協力により、これもある程度達成できたと思います。

 ここでは、限られた時間の中で参加者の方からいただいたいくつかの質問のうち、会場ではあまり十分に答えられなかった二点について書くことにしました。
 その1は「自主性」について、その2は「極めて低頻度で起こる問題行動」について、そしてその3はその2の発展として「内潜的行動/私的出来事の取扱い」についてです。

 「自主性」については、三項随伴性(ABC分析)でいえば、できるだけA(先行条件)を減らし、C(結果)で行動が自発されるように工夫するという話をしましたが、これを捕足します。
 ワークショップで想定していたのは、たとえば家でなかなか宿題をやらない子どもが「宿題をする」行動を増やそうとする場面です。
 親が「はやく宿題しなさい」とか「まだしてないの」とか「宿題しないとゲームできないぞ」とか、子どもが自分で宿題を始める前に色々と働きかけて(つまり、先行条件「A」を操作して)宿題を“させる”ことは、その場では成功することはあるかもしれませんが、そうすると、これが制御変数の一部になりますから、言われないと始めない(言われたら始める)ようになってしまう危険性があります。いわゆる「指示待ち」の状態ですね。
 加えて、上記のような言葉がけは、その多くが単なる「脅し」です。“単なる”というのは、宿題をしないと何か重大なことが起こるわけではないという意味です。「ゲームできないぞ」でさえ、本当にゲームをさせないことに成功している家庭は少ないのではないでしょうか。「はやく宿題しなさい」は「さもなくば○○○になるよ」が省略されているルール(随伴性を記述した言語刺激)ですが、まさに省略されている部分は随伴性がないわけです。
 このような単なる「脅し」型のルールは行動を制御する力を持ちません。随伴性は「A:親が「ゲームできないぞ」と言う B: テレビを見続ける C: ゲームできる」です。最初はそれまで他の場面で獲得したかもしれない履歴効果でテレビを見る行動を抑制し、宿題を始める行動を引き起こせたとしても、随伴性がなければ効果は消失します。
唯一残る効果はそうした言葉がけそのもが持つ嫌子としての機能ですから、子どもが宿題に取りかかるとしてもそれは「グダグダ言われ続けるのをやめさせるため」です(嫌子消失による強化です)。逆に言えば、グダグダ言い始めたら宿題に取りかかりなさいね、そうすればグダグダ言うのを止めるからというふうに教えているわけで、子どもは素直にそれを学ぶはずです。つまり、親がいるとき、しかもグダグダ言われたときだけ宿題をする。しかも、宿題し始めれば(少なくとも親にそう見えるように)いいわけですから、それで何らかの学習が起こる確証はまったくありません。このときの随伴性は「A:親からぐだぐだ言われる B: 宿題を始める(or ふりをする) C: 親がぐだぐだ言うのを一旦やめる」です。
 これが「指示待ち」の正体です。そして、これは家庭での宿題に限らず、パパさんの家事手伝いでも、会社での仕事でも、基本的には同じことなのです。

 「自主性」を高めるということは、言われなくてもするということです。自分から進んでやるようになるということです。ですから、親や上司からグダグダ言われなくても行動するように随伴性を設計します。
 そのためには、基本的にはC(結果)を増やします。子どもがゲームをする時間を親がコントロールできている家庭なら、宿題が終わったら(終わったときだけ)ゲームができるというのも手ですし、おやつやTVや音楽鑑賞やPCなど、子どもがそのことに向けてなら頑張れるという好子を出現させて、行動を強化するのが基本です。
 もちろん、モノ以外の好子も、それが好子として機能するなら使えます。親からの褒め言葉が機能するなら、それでもOKですが、子どもが大きくなってくるとそれだけではうまくいかない場合も多いはずです(だからこそ「はやく宿題しなさい」とか言わなくちゃならないわけだから)。それでも、たとえば、「宿題をして新しく学んだことを一つだけ教えて」と質問して、それをきっかけに「そうなんだ。それはお母さん知らなかったなぁ」とか、「これについてはどうなのかしら」とか、学んだことを承認しながら、それに関するおしゃべりを自然にするなど、社会的な好子を組み込むことも可能です。ただし、これも親と話をすることが好子となっていることが前提となりますから、日頃からの親子の関係性(お互いが習得性好子になっていて話し合う行動が相互に強化されているかどうか)が重要になります。

 以上はいわゆる「教育的」強化随伴性についてです。「教育的」強化随伴性とは、行動レパートリーの獲得に向けて、自然な随伴性だけでは望ましい行動が獲得できない場合に、補助的に付加する随伴性です。一度行動レパートリーが獲得されれば、自然な行動随伴性だけで行動は維持されます。
 たとえば、読み書き算術などは、日常生活に随伴性がありますが、そのまま放置しておいただけでは獲得が難しいので、何かしらの教授システムを使って教えるわけですが、一旦、行動レパートリーが獲得されれば、その後は「行動」を「こうどう」と読めたことを褒めなくても、維持できます(日常生活に読み書き計算をして強化される場面がたくさんあるからです)。
 ゲームで子どもの宿題をする行動を強化したり、おこづかいで部屋の片づけを強化するのは、“飴で子どもをつっている”ようなもので、むしろ「自主性」を育むことを妨害するのではないかと疑問に思う人もいるかもしれません。特にいわゆる「内発的動機づけ」の話をどこかで聞いたことがある人はそのように考えて、C(結果)を操作することにも反対することがあるようです。こうした反論に対する私の回答は次の三段階+αからなります。
 まず、すでに自分から宿題したり、片づけをしている子どもの行動を、わざわざゲームやお小遣いで強化する必要はありませんし、普通、しません。部屋が片づけている状態が好子だったり(片付いていない状態が嫌子だったり)、宿題をしてそれまでわからなかったことがわかったり、上達したりすることや、課題が終わることが好子になっていたり(終わっていないことが嫌子になっていたり)することが推定されますから、もはや「教育的」強化随伴性は必要ないわけです。
 次に、まだできていない子どもの行動に「教育的」強化随伴性を付加することで、将来、付加した随伴性なしには行動できないようにならないかという疑念ですが、これはそういう可能性もありえます。ただし、「教育的」強化随伴性を追加したことが原因というよりも、日常生活における行動随伴性がそもそもその行動の自発を十分に強化しないためと考えます。
 どういう場面でそういう可能性が高く、どういう場面でそういう可能性が低いかは、随伴性を書き出してみれば、ある程度は推定できます。
 たとえば、文字の読み書きや計算のように、日常生活に強化随伴性があるなら、行動レパートリーの獲得後に「教育的」強化随伴性を中止しても行動は維持されます。
 片づけはそうはいかないかもしれません。たとえば、片付いてない部屋に散らばっている雑誌を一冊本棚に戻しても部屋全体が片付くわけではなく、その行動は強化されません。これは塵も積もれば山となる型の随伴性であり、日常生活の随伴性が必ずしも望ましい行動を確実に強化できない場合です。こうなると、「教育的」強化随伴性による介入で一次的に片づけ行動の自発頻度を上げても、「教育的」強化随伴性を中止した後で行動が維持できるかどうかは不確実ということになります。
 ただ、希望はあります。片づけ行動を「グダグダ」指示のような嫌子ではなく、好子出現の随伴性で強化することで、片付いている状態が習得性好子としての機能を持つようになる可能性です。こうなれば、「教育的」強化随伴性を中止した後でも、片づけ行動が内在的強化随伴性で維持されるかもしれません。自発的に、楽しく片づけをしている人の行動はおそらく何かしらの履歴で、片付いている状態が習得性好子としての機能を獲得している人たちと考えます。片づけにおける「自主性」の理想型の一つと言えるでしょう。
 「教育的」強化随伴性を中止しても行動が維持されるかどうかを推定するもう一つの簡単な方法は大人の行動観察です。「教育的」強化随伴性で子どもの頃に教えられて(今は教えられていない)大人が、「教育的」強化随伴性なしで自主的に行動できているかどうかを観察すればよいのです。読み書き計算ができるようになった大人が、いまはしなくなったという話は聞いたことがありませんが、片づけをしない大人はたくさんいますよね。実際、学校コンサルテーションをしていると、職員室の自分の机の上は書類などでごちゃごちゃになっている先生が、子どもには完璧な清掃を要求していたりして、苦笑してしまうことがあります。そういう先生には「まずご自分の机の上を片づけてみませんか?」と助言させていただくこともあります。皮肉ではありません。そうすることで、片づけや清掃行動の随伴性をより正確に記述できるようになりますし、自然な随伴性では十分に行動は自発されないときに、どういう付加的な随伴性を整備すれば行動を自発させ、維持できるかもわかるようになるからです。

 まとめると「自主性」を高めるには、増やしたい行動を先行条件ではなく、後続条件で強化する、できれば好子出現による強化随伴性を追加して強化することが望ましく、追加した随伴性を中止しても行動が維持できるかどうかは自然の(日常生活の)随伴性次第であり、ずっと付加的随伴性が必要な場合もある、ということになります。

さらなる捕足:

  • もちろん「自主性」は行動分析学の概念ではありません。上記の分析は、世間で「自主性」が高いと言われている人の行動とは、行動分析学からとらえるとこのように解釈できますよという話です。「自主性」が自主的な行動の原因ではありません。誤解のないように。
  • すでに行動内在的強化随伴性で自発されている行動にモノなどの好子出現による強化随伴性を付加してすると、その付加的随伴性を中止した場合にどうなるか、これがいわゆる「内発的動機づけ」研究の一般的な実験手続きですが、上述したように、教育場面、臨床場面では、こういうことは普通はしません(しているとしたら、それは無駄な介入です)。ですが、無理にでもそういう介入をした場合にどのような効果があるかは、実は教育心理学の教科書などで概論されているほど単純ではありません(これについては機会があれば別途記事を書きます)。
  • 「教育的」強化随伴性を導入するのは、現状では(日常の随伴性では)学習が進まないと判断したときなので、たとえば、ゆっくりとでも学習が進行しているときに、そのまま待つか、加速させるために「教育的」強化随伴性を導入するかは臨床的な判断になると思います。その場合、「教育的」強化随伴性を導入したことで、もしかしてそのままにしておけば自然な内在的随伴性の制御下に入ったかもしれない行動を、内在的随伴性の制御下に起きにくくなる(「教育的」強化随伴性を中止しても維持されにくくなってしまう)という可能性はなきにしもあらずだと思います。ただ、そのままにしいても、いつまでたっても学習が進まない可能性もあるわけで、「臨床的な判断」というのは事前に完全に予見するのは困難なので、どちらかに決めざるをえないことも多く、その場合は選ばなかった選択肢を選ばなかったことに後悔するより、選んだ選択肢から先を考えていく方が適応的だという意味です。