自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

人はなぜ同じ過ちを繰り返すのか

 財布や携帯電話をどこかに置き忘れたり、洗濯物を取り込み忘れて夕立に降られたり。飲み過ぎてひどい二日酔いになったり、下がり続ける株価に我慢できずに売ったとたんに反転したり。好きな子にいじわるなことを言ってしまったり、結婚記念日を忘れて怒られたり。

 やってはいけないと思いながらついついやってしまったり、しなくちゃいけないとわかっていながらついつい忘れてしまう経験は誰にでもあるだろう。そして「また、やってしまった」と認識すると、自信を喪失したり、抑うつ的な気分になる人までいるかもしれない。

 人はなぜ同じ過ちを繰り返してしまうのだろうか?

 「過ち」とされる行動が起るにはそれぞれ原因がある。

 財布を忘れるときには、その前に、いつもとは違う場所や時間に財布を置いていることが多いはずだし、それを取るべきときに何か他の行動をしているはずだ。たとえば何年かぶりに海水浴に行き、脱衣所で着替えようとして財布を棚の上に置き、着替え終えて脱衣所をでるときに、ちょうど友達から「海にくるなんて何年ぶりだよなぁ」と声をかけられれば、棚の上に置いた財布をとる行動は自発されにくくなる。

 友達に紹介されて気になった女の子の注意をひこうとしても、何を話せば自分に興味をもってくれるかわからず、その子が他の友達ばかりと話しているのを目にすれば、手っ取り早くこちらを向いてくれるようなことを口走ったりするかもしれない。たとえそれが印象を悪くして、むしろマイナスに働きそうなことであったとしても。

 やってしまった!と後悔する行動のひとつ一つを冷静に振り返ってみれば、それなりに理由があるはず。行動は原因なしには起らないからだ。すべての行動は原因からみれば正当性があるという意味で正しく、「過ち」という行動は存在しない。「過ち」と判断しているのは、あくまで解釈なのである。

 人が同じ過ちを繰り返す原因、というかそのことを嘆く理由は、むしろ「過ちは繰り返さないはず」という単純な思い込みにある。さらに、同じ過ちを繰り返すかどうかはどれだけ“反省”したかによるという過剰な精神主義に大きな問題がある。

 単純な例で考えよう。いれたてのお茶を急いで飲んで、口元をやけどしてしまったとする。やけどは嫌子として機能し、急いでお茶を飲むという行動を弱化する。だから、次の日に同じようにお茶をいれたときには、すぐには口に運ばず、しばらくたってから飲み始めるはずだ。ところがこの弱化の効果はそれほど長続きしない。何週間か、何ヶ月かすれば、また熱いお茶でやけどをしてしまうだろう。

 行動の後に嫌子が出現すると、その行動の自発頻度は低下する。これが弱化の法則であり、人だけではなく動物全般に適用できる学習の原理の一つである。弱化の法則からすれば、「過ちは繰り返さないはず」という解釈も間違ってはいない。

 ただその効果は永続的ではないということだ。そこに強化がある限り(喉の渇きがお茶で潤う、お茶の味を楽しむなど)、お茶を飲む行動は自発される。数回のやけどでお茶のみ行動が永遠に自発されなくなるというのは、種の保存という生物学的観点からも有利な仕組みではない。弱化の効果が限定的なのは、進化にとって意味があることなのだ。

 日光の猿回しのサルは別として「反省」というのは、おそらく人間だけに見られる特有の行動レパートリーである。我々は幼いときから、何か過ちをしでかすたびに「反省したか?」と問いつめられ、「反省しました」と答えてきた。

 こうしたやりとりは、善悪の判断という解釈や、過ちとその成り行きの因果関係を教えることには役立つ。単に「反省しました」と言わせることを目標にするのではなく、何が間違っていたのか、なぜ間違っていたのか、自分やまわりの人にどんな迷惑がかかったのか、代わりにどんなことをすべきだっのか、などを本人に考えさせるような教え方をすれば。その場の言い逃れ(許してもらうための逃避的な行動)としての反省ではなく、善悪の判断や、因果の理解をうながす保育や教育によって、過ちを繰り返さないための「反省」を教えることもできる。

 しかしながら認識すべきことは、いくら反省しても繰り返される行動はあるという事実だ。その場合には、反省は有効ではないと認め、あきらめるか、ほんとうに繰り返したくないのであれば、それなりの処置をすべきである。

 熱いお茶でときどきやけどをするくらいならいたしかたないとあきらめたらいい(人にもよるだろうけど)。財布も同じようにあきらめられる人もいるだろうし、あきらめたくない人は、財布にひもをつけて常に鞄につなげておくなどの解決方法を試してみたらいい。結婚記念日はケータイのアラームにセットしておくとか、言うべきでないことを言ってしまわないように、その兆候を感知していったんその場から退場できるようなサインを目にみえるところにつけておくとか(ミサンガをつけておいて、いざとなったらトイレに立つなど)、それなりの処置とは「過ち」が起きている環境を整備する工夫である。

 これで絶対上手くいくという処置はない。個々の場面でそれぞれが見つけるしかない。ただし、うまくいかないからといって、自信を喪失したり、抑うつ的な気分になる必要はない。過ちが繰り返される原因は、あなた個人にあるわけでないのだから。

 犯罪に関しても同じである。談合やインサイダー取引き、交通違反や少年犯罪など、社会的に問題となっている行動の多くは「反省」によっては解決しない。にもかかわらず、その処置として「反省」を求める風潮がある。反省の様子が見られれば減刑、再犯すれば反省が不十分だったという解釈では、犯罪は繰り返されるだけである。繰り返されている犯罪であれば、犯罪が起きている環境を整備しなくてはならない。そうした取り組みをしないなら、あとはあきらめるしかない。