自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

エピローグ(ポストローグ?): 特別支援教育における教育現場と研究機関の協働・連携 (2) 〜教員のパフォーマンス・マネジメントを支える組織づくりに向けて

 わー。やっちまいました。特殊教育学会、初日のシンポジウム;「特別支援教育における教育現場と研究機関の協働・連携 (2) 〜 教員のパフォーマンス・マネジメントを支える組織づくりに向けて 〜。持ち時間と終了時間を把握せずに話し始め(指定討論)、気がついたときには時間切れになってました。自分が企画や司会をやっているときには、もっともメーワクな指定討論のパターン。関係者の皆さま、ごめんなさい。

 せめてもの罪滅ぼしに、指定討論で話したこと、話すべきだったろうに時間切れで話さなかったことを書いておきます。

参加への選択機会

 研究会の運営で最も重要な変数の一つは、先生たちに選択の機会があるかどうかだと思います。教育委員会や学校主催の「強制参加」vs 先生たちが主催の「自主参加」が大枠の図式ですが、「自主参加」をうたっていても、実際にはだんだんと続けることがノルマになってくるものです。徳島ABA研究会には現在30名ほどのスタッフの先生方がおられますが、このスタッフは毎年更新制で決まります。各々が次の年もスタッフをするかしないのかを決めて参加しているのです。なので、30名の顔ぶれは、発足当初からはかなり変わってきています。数字は持っていませんが、のべで数えたら10年間でこの3倍くらいの先生がこれまでスタッフとして参加してきたのではないかと思います。

 それでも毎年の参加機会を完全に「自主性」にするのは難しい。特に会長や会計、各校のリーダーの先生方にとっては、自分たちがやめてしまっては研究会が存続しないことがわかっているだけに「今年はやめます」とはなかなか言えないわけです。実際はことあるごとに「そろそろやめようか」という発言が、半分冗談、半分本気ながらみられます。これは逆に自主性を担保する上では重要な言語行動だと思います。

 先生たちの行動を強化する源泉(好子と強化随伴性)は、子どもの学び、自らの学び、同僚の先生方の学び、そしてその成果として、学校が楽しく充実した職場になっていくことに尽きるようです。こうした強化随伴性が働くように、つまり、「やらなくちゃならないからやる」から「やりたりからやる」への変換を随伴性としていかに設計するか、そのあたりが重要ではないかと思われます。

グラフの罠

 事例研究を進めるさいには(あるいは事例研究までしなくても難しい指導を進めるときには)、子どもの行動を記録し、視える化することが大切ですが、これはExcelなどを使って複雑なグラフを作ることでは必ずしもありません。卒論や修論やその他の研究におけるグラフの機能と、学校で教えながら、教えるためにつくるグラフの機能は完全に一致するわけではないからです。前者は変数間の関係性を分析したり、あるいは研究からわかったことをわかりやすく他の人に伝えるためのグラフであり、どちらといえばすべての(あるいはある一定の期間の)記録がでそろってから、色々と描き変え、解釈しながら、作り上げて行くものです。これに対して後者は、指導目標である標的行動をリアルタイムで作図しながら、子どもの過去と現在(と、そこから予測される未来を)、標的行動の頻度の移り変わりという単純化された形式で図式化し、「明日、どうするか」を日々決めるのに使うものだからです。最も重要なのは指導との同時性。なぜならグラフは指導行動を子どもの学習状況の制御化におく道具だからです。

 学校の先生方の忙しい毎日を考えれば、事例研究をしながら前者型のグラフを作成するのは、まず困難です(グラフおたくの先生以外は)。むしろ、そういうグラフを作らなくちゃ、でもそんな時間ないし、記録は記録用紙にとってあるから、後でグラフを作りましょう....という先延ばしの原因になって、指導目標がすでに達成されているのに同じ指導を続けたり、学習が停滞しているのに同じ指導を継続したりすることになってしまいがちです。

 グラフは手描きでOK。むしろ大切なのは毎日つけて、視て、考えることが大事です。グラフが好子として機能して先生たちの行動を動機づけるのには違いありませんが、好子となるのはグラフのきれいさではなく、そこに顕われてくる子どもの学習であるはずなのです。

ビデオの罠

 卒論や修論やその他の研究(研究者による研究)をするときには指導の様子を録画して後から再生、観察して記録することはよくあることです。しかし、これを学校で日常的に先生の仕事としてやるのは現実的ではありません。とてもそんな時間はないからです。学生や院生が共同研究として参加するとか、あるいは先生たちが研究者としての研究を試みるとき以外には、つまり、学校現場における事例研究のほとんどでは、いかにビデオ撮影せずに記録できるように簡略化したり、工夫できるかが要となります。

 ビデオ撮ってあるから、後で観て記録すればいいよねというように、これも上述したようにリアルタイムでの判断の先延ばしにつながる危険性もあります。 

 事例研究をするならビデオを撮影して後から観察しなくちゃと先生たちが思い込み、それはたいへんすぎる、できないと決めているなら、これも罠の弊害ですね。

研究機関(大学)側で考えるべきこと

 このように考えてみると、大学で教えていること(たとえば、ビデオ録画、インターバル記録法、観察者間一致率、シングルケースデザインなどなど)は、すべてそのまま学校の先生が日々の仕事してできる事例研究には適用できないということです。制御変数を特定する研究に必要な要件と、子どもの学習記録に基づいた指導に必要な要件とを整理して、研究を恊働して進めるためには、その研究の目的と成立要件をできるだけ事前に話し合い、学校側と大学側でお互いができること、したいこと、できないこと、したくないことをまとめ、両者が「やりたりからやる」と参加できる選択肢を作ることが必要そうです。 

 徳島ABA研究会で積み重ねてきた300以上の事例研究は、研究者からみれば変数が制御しきれておらず、測定の信頼性確保もできていなくて、当然ながら、たとえばそのまま『行動分析学研究』に投稿しても受理されないことでしょう。ところが、多くの場合に、事例研究を進めることで、そうしなければもしかしたら教えられなかったこと、教えるのにもっと時間がかかったことなどが教えられてきているのです。

 大学側が、学術雑誌に掲載できるような研究でしか恊働できないとするならば、こうした形の連携はそのままでは難しいかもしれません。研究者には論文を書く(雑誌に掲載する)という随伴性がありますから、論文にならない事例研究に多大な時間と労力を割くのは弱化されます。 

 大学院教育で先生たちの専門性を高めるという方法は、全体的にはうまくいっていないと思います。ただこれは、学校現場で必要とされる知識や技能と、大学院のプログラムで教える知識と技能がマッチしていないことが主な原因ですから改善の余地はあると思います。「修士号」とか「修士論文」に拘らず、たとえば学校に務めながら、2年間、校務分掌はなくし、授業担当も半分にすることで研究の時間を確保し、授業改善や事例研究を4-5件、専門家の指導のもとに進めるようなプログラムなら機能するように思います。大学院側も(文科省側も)それを「授業」と単位認定できれば、大学教員は仕事として時間を割くことができますので、上記の随伴性の問題も解決できます。

 教員免許を修士以上にするという議論は度々でてきていますが、なぜそうした仕組みが必要で、そのためにはどんなプログラムが必要なのかについての議論は不十分です。単に学位の条件を変えただけで問題が解決しないのは自明の理なのですが、こういう意見は少数派なのでしょうね。 

 もう一つの可能性は、大学以外に、仕事として、学校における事例研究の助言ができる人や職業を確保することです。今回の話題提供者のお一人であった笹田先生のように地域の発達センターで働いてらっしゃる専門家が学校の先生と一緒に事例研究に取り組むケースは増えているのでないかと思います。他にも地域の教育センターや研修センターなども同様な機能を担える機関でしょう。地域の発達支援・教育支援の拠点に、地域の先生方の事例研究を応援できる人材と資源(仕事として取り組むための予算措置)が配分されていけば、もしかしたら大学院プログラムの改善よりも、確実に、安定したシステムが確立できるかもしれません。この手の仕事は中央集権的にやるよりも地方分権的にやった方が現場のニーズに柔軟に対応できるぶんうまくいくからです。

 以上です。