自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

阻止の随伴性:日本行動分析学会年次大会を振り返って(その1)

早稲田大学で開催された第29回日本行動分析学会年次大会も盛況なままに閉幕。木村先生はじめ、早稲田のスタッフの皆様に感謝です。

個人的には師匠のDick Malott先生と久しぶりにお会いして、招待講演の通訳までやらせて頂いたのが楽しかったです。まさにDickらしいスライドショーとジョークと語りに、20年以上前の、Kalamazooでの院生生活を思い出しました。 

今年は会議等が忙しくて、学会だというのに、発表を聞いたり、発表者と討論する時間がほとんどとれなくて、これはほんとうに残念。そんな中、最後の自主シンポジウム「許可の随伴性・阻止の随伴性・ルール支配行動:青年・成人臨床事例からの再考(1) 」 はしっかりと聞くことができ、考えされられることも多かったので、ここにコメントします。コメントといっても、熟考したわけではなく、思いつきプラスαくらいの段階。

青年・成人(に限らず)の臨床事例(に限らず)、いわゆる過剰な(非合理的な)"体験回避" の背景に、不正確なルールとそれによる行動制御がみられる、という問題提起には同感。こうした不正確なルールやルール支配がどのように形成され、維持されるのかを検討することが、行動の理解や臨床技術の改善につながりそうな気がすることにも同感。体験回避の背景に、阻止の随伴性を記述したルールが観察されることが多いのにも納得。

しかしながら、体験回避を維持するのは阻止の随伴性を記述したルールだけではない。たとえば、話題提供にあったような、「親子丼(だっけ?) を食べたら、もどしてしまう」は、おそらくは非合理的な(ただし、本当にもどしているなら正確な)、嫌子(吐瀉物や苦痛)出現による弱化の随伴性を記述したルールである。阻止の随伴性を記述したルールの例ではない。同様に、「友達を映画に誘ってもどうせ断られる(だから誘わない)」は消去の随伴性を記述したルールであって、これも阻止ではない。断られるとショックだから、それを回避している、と論じるのは、「誘わない」 を行動に定義してしま誤りと、行動による環境変化ではなく、それをどう感じるかを制御変数にとりこんでしまう誤りの二つのミスを侵すことになる(食餌の遮断化したネズミのレバー押しにペレットの提示を随伴させるのに、「おいしい」を好子としてしまう間違いと同じ)。

おそらく、体験回避を維持しているのは、それに従うことで、より正確な随伴性と抵触しないようなルールとくくれるのではないだろうか。阻止の随伴性もその中にふくまれるだろう。でも、それだけではない。 臨床的には、当該者が述べているルールの正確性や合理性を見極め、より正確な随伴性とどのような関係にあるのかを検討し、抵触しないルールに従っていることが逆に不適応を生じさせているのなら、抵触するような随伴性を導入してみるというのが、一つの解になるのかもしれない。これは、たとえば、当該者が信じているルールがいかに非合理的なのかを、図解したりして説得する認知療法や、不安などをそのままにすることを教えるACTとも異なり、どちらかというと、行動療法の本道的な手続きになるのではないだろうか。おそらく、奥田先生がコメントされていたのは、このあたりのことだと思う。 臨床との関連についてはここまで。「阻止の随伴性」の基本的、基礎的な概念の話は別記事で。