自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

J-ABA年次大会2021を振り返る:学会企画シンポジウム 行動分析学は日本の大学でどのように教えられているか

学会企画シンポジウム 行動分析学は日本の大学でどのように教えられているか

企画・司会:中島 定彦(企画委員会; 関西学院大学)
話題提供:
 吉野 智富美 (ABAサービス&コンサルティング)
 山岸 直基 (流通経済大学)
 島宗 理 (法政大学)
 杉山 尚子 (星槎大学)

 こちらも内容が盛り沢山でした。講義vs演習で議論を白熱させたら面白いのではと思っていましたが,講義中心(のようにみえたの)は山岸先生しかいなかったのでそれは難しかったかな。

 でも大学の授業や色々な職種で提供されている研修も講義が中心だと思うし,演習というと,アイスブレーキングやロールプレイや隣の人と話すみたいな,形式的には演習だけどそれと学習目標がどう結びついているのかようわからない教え方も多いので,いかに行動分析学の行動を強化するというところに焦点を絞ってもよかったような気もします。行動分析学行動分析学で教えようよ!というメッセージは届いたのではないかと思いますが,戦術論も展開できるとよかったですね。

 今回は中島先生の人選方法が「教科書を使っている人」だったので,話題提供者は全員教科書を使って授業をしていたわけですが,これも世の中の大学の授業としては典型的ではなく,教科書を使わずに授業をしている人も多いわけで,なぜ教科書を使うのかについて議論しても良かったかもしれません。教科書を指定し,教科書を読んで予習する行動を自発させるのは,もちろん授業時間に演習を中心にするためには必要という事情もあるのですが,その他にも学習を自己ペースで進められるようにするという大きな利点があるわけです。講義を聞くスピードは調節できないし,聞き返すこともできないけど,読むスピードは読み手が自在に変えられるし,読み返すのもフリーオペラント。講義が動画として提供されるようになって,講義も自己ペースで学習できるようになったのはコロナ禍の功名ですね。あと,学生からは時々「授業で使わないのに教科書を買わされる」という苦情を聞きますが(たぶん今の時代ではレアケースだと思うけど),自分の場合(行動分析学の授業以外でも),全頁の8割以上を授業で使わないなら教科書指定はしないです。あ,これは蛇足です。

 時勢的には対面/オンラインという二分法は意味ないよという議論をもっと明確にやってもよかったかもしれません。杉山先生はコメントされていましたね。学習行動に随伴性を設定するために何をどのように使うか(使えるか)を考えるのが教え手の仕事であって,それは対面でもオンラインでも同じで,対面授業でもwebクイズなどは使えるわけだし,オンラインだからといって学生同士で学習行動を強化し合うような随伴性を設定できないわけではないという点も,行動分析学<で>授業を教えることの特徴だと思います。

 個人的にもっと議論したかったことの一つは教材や指導方法の評価方法やデータに基づいた授業改善です。何を測るか(クイズ/テスト,課題,アンケートなど),どのように集計し,評価するかについて話し合えればよかったかなと。うちの学科だと,他の先生は授業終わりに「リアクションペーパー」を書かせていることが多いようで,そしてこの方法は結構一般的になってきているようで,自分も他の学科の先生と共同で教える授業で使った(使わされた ^^)ことがありましたが,学びのデータとしても授業改善のための手がかりとしても役立ちませんでした。そういう話もできたらよかったかもしれません。

 もう一つは学び手の個人差に関わる問題です。もしかしたら自分の状況に特異的な話かもしれません。授業で学習目標を課題分析し,標的行動として定義して,それに随伴性を設定すると「課題をする」がほぼ「学ぶ」とイコールになります。と同時に「してもできない」課題や学び手も明確になります。これは印象論でしかないのですが,読み書き計算やいわゆる"論理的思考"など,授業内では教えることが難しい下位行動レパートリーの個人差が年々大きくなってきているように感じています。いまのところこのことについては解が一つも見えてきていないので,他の先生方(壇上でもフロアでも)のご意見をお聞きしたかったです。

 徹底的行動主義については,試験勉強的な知識として教えることと,徹底的行動主義的に物事を考えるられるように(考えるように)なることとは別物で,後者は随伴性形成の結果でしかないという杉山先生のご意見に私も賛成です。どのような行動の随伴形成が成立要件なのかは要検討課題だと思います。授業では時々「行動分析学家として考える」という演習をすることがあって,それは行動の原因を認知論的,あるいは精神論的に作文した文章を行動分析学的に翻訳する(たいていは複数の制御変数が推測できるから一対多の翻訳課題になる)わけですが,それができるようになったからといって,日常的にそう考えるようになるわけではないです。一方で,毎年1-2人は授業改善アンケートに「世界の見方が変わりました」と書いてくれる学生さんがいて,たぶんそういう行動変容(価値変容?)が生じているのではないかと希望的観測と伴に推察しています(この手の感想が一番嬉しいです)。行動分析学の用語や概念に関する言語行動を形成するより,誰かしらの(ヒトでもハトでも)行動を変容した体験の方が重要ではないかとは考えていますが,認定行動分析士(BCBA)として毎日のように行動変容の仕事をしていても根っからの?精神主義の人もいますから,決定要因ではないと思います。なお,主義は随伴性形成される行動という話は,いずれ機関誌に徹底的行動主義特集のコメント論文として掲載される予定です(原稿は2月に提出済みですから,たぶん次号かな)。

 最後に。今後,このテーマで学会員の皆さまからの成功例や失敗例をニューズレターで募集していくそうなので(突如決まっていましたよね,素晴らしい展開!),そういう形でアイディアやコツやツールが共有されていくといいですね。