自然と人間を行動分析学で科学する

島宗 理@法政大学文学部心理学科【行動分析学, パフォーマンスマネジメント, インストラクショナルデザイン】

再考シングルケースデザイン:吉田寿夫先生からの問いかけに答える(その8):新奇性・脱常識性について

吉田先生からの問いかけ:

○検討していることの新奇性・脱常識性について
・反証を求めている(リスキーな検討をしている)か?
*率直に申し上げて,門外漢が読んで「へえー」とか「なるほど」とは思えない論文がたくさんありました(人間というものは,基本的・単純な原理の適用の積み重ねで変わるものなのかもしれませんが)。
*「分からなくならないと認識は進展しない」,「自分を分からなくさせることが大切」だと思っています。
・「このことについてはこれまでに検討がなされていない」という理由だけでは当該のことについて検討することを正当化するための論拠として脆弱では?
*ただし,実践を兼ねているから仕方がない面が多分にあるのかもしれません。
・実践の場ないし世間にとっての新たな知 vs. 学界にとっての新たな知 ・前者も実践上大切だが,後者が重視されていないのでは?
*以上のことは,リプリケーションにおいても同様に該当する。

 3月に慶應義塾大学の渡辺茂先生の最終講義「八つ当たり心理学批判-言いたい放題-」を拝聴させていただきました。渡辺先生は行動分析学に対する「批判」として「面白さに欠ける」とおしゃっていました。行動分析学の考え方とか研究とか方法論はよく理解し、その意義もわかっていながら、このように考えて、それゆえに(それだけではないでしょうが)行動分析学を専門とはしない実験心理学の先生方は他にもいらっしゃると思います。

 行動分析学の研究は、結局のところ、そのほとんどが行動随伴性に帰結します。もしそうならない現象が発見され、積み重なり、そうした説明不可能な現象をもまとめて説明可能な枠組みがでてきたら、そのときこそクーンのいうところのパラダイムシフトが起こるべくして起こるわけです。でも、そのときが来るまでは、なんでもかんでも行動随伴性みたいになるわけです。

 私は、これだけ複雑で多様な事柄がこんなに単純な原理で「解釈」でき、かつ役に立つように使える(行動を「制御」するのに有効)ことを「面白い」と感じ、価値を見いだしているわけですが、そういうことよりも意外性や「新奇性」や「脱常識性」に面白さを感じる人が多いことも理解できます。

 ここのところは、もしかしたら突き詰めれば「趣味」の問題かもしれません。なので議論にはならないし、議論すべきことでもないかもしれませんが、それでも議論するのなら、何が科学者の行動を強化しているか、研究行動を制御している変数は何か、ということになるのかなと思います。

 ただ私も、世間一般の人たちにとって「面白い」と思われるような研究がもう少し増えてもいいのではないとは考えていて、だから「忍者の修行」とか「幻臭」とかについて、行動分析学から研究したりしているわけですが、日本だけではなく、国際学会でもこういう実験をする研究者は少数派です。

 「分からなくならないと認識は進展しない」について:

 基礎研究(実験的行動分析学)では「わからないこと」の探求が多く行われています。直接の応用可能性は不明だが、「学界にとっての新たな知」を純粋に追求している諸研究は、たとえば Journal of the Experimental Analysis of Behavior などをご参照下さい。

 応用研究の目的はどうしても「どうすればこの行動が変わるか」になります。ある意味でベースライン条件では「どうしたらいいかわからない」のでわざわざ介入をするわけですから、その都度、わからないことをわかろうとするプロセスにはなっているはずです(もちろん、行動が変わったことが、なぜその行動が変わったのかがわかったことでは必ずしもないことには注意しなくてはなりませんが)。

 ご存知の通り、シングルケースデザインは再現に依存する研究法です。母集団を想定し、仮説を作り、標本抽出し、無作為に実験条件を割り当てた群間比較から仮説を検証し、演繹的に母集団についてものをいうわけではありません。シングルケースデザインでわかることはその実験のその行動の制御変数についてのみ。その一般性は同じような介入をどこかで繰り返し行い、その効果を確認していくようになっています。
 だからこそ、群間比較実験より、再現が必要だし、それこそ命といってもいいと思います。だからこそ、似たような介入方法の研究が多いことは、むしろそれだけ再現(や系統的再現)が繰り返されているということで、変数の外的妥当性が検証されつつある、望ましい状況ととらえます。